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美濃焼の歴史は古く、1300年の歴史があります。「志野」や「織部」など代表的な焼物もありますが、現代では、お客様が使い易く品質の良い商品が強みとなっております。
国内の陶磁器シェアも「50%以上」を誇り、ほとんどのご家庭で美濃焼が使われている状況です。
美濃焼は高価で品の良い焼物から、こだわりはそのままに買い求めやすい焼物まで生産されています。商品構成も、特定のアイテムに特化することなく、幅広い「テーブルシーン」「生活シーン」を演出できるラインナップとなっております。
あなたのすぐそばで「美濃焼」は活躍しています。
いつも暮らしの真ん中に。ニッポンの真ん中から。世界へ発信。
日の丸の「赤」と「白」をイメージ。日本を代表するという意思を込めています。
国内シェア50%以上という事実のもとに、その品質、誇りと共に、暮らしの真ん中で、皆様に豊かさを届ける陶器でありたいという思いを込めています。
ロゴには「6」の思いが込められております
①日の丸をイメージ
②暮らしの象徴としての「ご飯茶碗」を、伏せて上から見たデザインとなっており、真ん中の円はご飯茶碗の「高台」部分となります。
③「高台」部分の円は、日本の真ん中に位置する「美濃地方」を表現しています。
④四隅の三角形は、美濃焼の産地でもあります「土岐市」「瑞浪市」「多治見市」「可児市」を表現しています。
⑤四隅の三角形が外に向かっておりますのは、さらに広がりを見せていくという思いが込められています。
⑥「暮らし真ん中」「MINOYAKI」の文字がラインから飛び出していることで、「枠にはまらない大きな発信をしていく」という思いを込めています。
古墳時代後期から奈良時代、岐阜県東濃地方では山の斜面を利用して造った地下式・半地下式の窖窯(あながま)で、土器とは異なる硬質のやきもの「須恵器(すえき)」が焼かれました。
平安時代になると、「灰釉陶器(かいゆうとうき)」と呼ばれる釉薬をかけたやきものが作られるようになり、貴族や寺社を中心に食器や貯蔵容器などが全国的に流通しました。
鎌倉時代になると、灰釉陶器に代わり、庶民のうつわとして釉薬をかけない「山茶碗(やまぢゃわん)」が登場し、室町時代を通じて焼かれるようになりました。
戦国時代になると、地上式の大窯(おおがま)が考案され、天目茶碗や全面に施釉された皿類、調理具すり鉢三器種が中心に量産され、全国的に流通します。
安土・桃山時代には、「瀬戸黒(せとぐろ)」「黄瀬戸(きぜと)」「志野(しの)」が登場します。当時盛んだった茶道の道具として、武将や町衆を中心に茶碗や向付、水指などが愛用されました。
江戸時代になると、九州から連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)が導入されます。初期には「織部(おりべ)」や「御深井(おふけ)」の茶道具が焼かれ、武将を中心に大流行しました。
連房式登窯では、茶道具の他に日用雑器を大量に生産しました。これらの製品は江戸などの大都市をはじめ全国に流通しています。
江戸時代後期には、陶器より硬くて白い磁器が登場します。陶石(とうせき)と呼ばれる原料を使用する九州の磁器に対して、瀬戸や美濃では蛙目粘土(がいろめねんど)に長石(ちょうせき)や珪石(けいせき)を混ぜた土で、染付磁器(そめつけじき)が作られるようになりました。
明治時代になると、型紙摺絵(かたがみすりえ)や銅版転写(どうばんてんしゃ)などにより、同じ絵付けの製品を大量生産するようになります。その一方で、優れた陶工達の作品が海外で高い評価を受け、美濃焼の輸出へつながりました。
第一次世界大戦が始まり、世界の市場を獲得して好況を迎えた事により生産業者が増え工場施設も拡張されていきました。窯については、近代的な石炭窯(せきたんがま)へと転換、成形に関しては電動ロクロの使用。戦後には、桃山陶の産地が美濃であることを明らかにした陶芸作家たちの活躍によりその後、美濃から多くの陶芸作家が輩出されました。
そして現代では、陶磁器生産量は全国No.1のシェアをほこり、消費者の需要に応えるほか、戦後に活躍した陶芸作家に刺激・影響を受けた陶芸作家の活動の拠点となっています。